WWI終戦~WWII参戦に至る戦間期イタリアの対外関係・外交戦略の概略(前編)
修正2019/7/26:4ヶ国間関係図の2枚めを差し替え
修正8/17:ファシスト・イタリア成立後の外交欄に当時の欧州情勢を図付きで追記
と、重すぎる看板を背負った記事になります。
さて、第二次世界大戦について調べ始めた人や、あるいはある程度勉強した人でも、「イタリアって何で参戦したの?」「そもそもイタリアってエチオピア戦争以外何かやってたの?」という人は多いと思います。
そこで、この記事ではWWI終戦からWWII参戦に至る約20年の間、対象をヨーロッパ、特に国際情勢については英仏独伊の4ヶ国間の関係に絞ってイタリアが何を行いどのような外交関係を作り出していったのかについて、時期を4つに分けて簡単に整理していきます。
こういう纏まった記事を書くのは始めてなので色々と不備があるとは思われますが、その際はお気軽に参考文献とともに指摘を入れて頂ければと思います。説明にぴったりな画像・イラスト・図解などあれば涙を流して喜びます。
<<WWI終戦~ファシスト政権誕生まで:「不満」の時代>>
教科書にも記載があるように、WWI発生前からイタリアはドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟を締結していたが、オーストリアとの領土問題での対立を理由に中立を保っていた。そんな中、1915年にイギリスから連合国側からの参戦を条件に「未回収のイタリア」の返還を提案されるとイタリアは連合国側から参戦し、無事勝利を収めた。(cf. ロンドン秘密条約)
※未回収のイタリア:南チロル、ダルマチアなどの歴史的にイタリア人が住んできた・イタリアと関わりの深かった地域(ここにコルシカを入れる論者も居た)
第一次世界大戦発生時の主要国の関係(画像は世界の歴史まっぷから)
無事戦勝国となったイタリアは意気揚々とパリ講和会議に出席する。しかし秘密条約の禁止・無効を訴えるアメリカの主張に、バルカンへのイタリアの進出を嫌ったフランスが乗っかる形で議論が進んだことで条約での約束は果たされなかった。
その結果、パリ講和会議直後の1919年9月19日には国民的詩人ダンヌンツィオによるフィウメ占領事件が起こるなど政府・国民に広く不満が蓄積した。
「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(写真はイタリア文化会館から)
この一連の流れの中で、イタリア・フランス関係は極めて険悪なものとなり、イタリアは終戦直後からドイツやハンガリーなどの「条約修正派」の国々への支持を強めていくこととなる。一方で、イギリスとの関係はさほど険悪にはならず(当時イギリスもフランスの強硬な姿勢に不信感を持っていた)、あくまで欧州の平和の維持と、ドイツや17年に誕生したソ連への警戒という点ではイタリアは英仏と一致していた。
・パリ講和会議終了後の英仏独伊関係のイメージ
<<ファシスト政権誕生~軍縮会議:「継続」の時代>>
◎この時期の大国間のイタリア外交の大枠
1923年のムッソリーニ=ファシズム政権の誕生は英仏に少なからず衝撃を与える。というのも、彼らはファシスト党の前身であるイタリア戦闘者ファッシの時代から「ヴェルサイユ体制の修正」「未回収のイタリアの回収」を主張していたからである。
しかし、政権成立後のムッソリーニは意外にも「政権獲得以前の外交路線」を保持する。具体的には、あくまでヴェルサイユ体制の修正を主張しつつも、英仏、とりわけイギリスとの決定的な対立を避け、対話によって目標を達成しようとした。
このムッソリーニによる外交姿勢を説明する上では次の2つの国際的・国内的背景を理解する必要がある。
1つは、国際情勢に大きな変化はなかったという事、具体的にはこの時期にはまだ世界的にあらゆる戦闘を望まないという目標で国際的に合意が取れていたという点が挙げられる。これが端的に現れたのはファシスト政権誕生直後にギリシャとの間に発生したコルフ島事件である。この事件はイタリア人将校が暗殺された事を発端とするなど極めてイタリアにとって有利な状況で始まった事件であったにも関わらず、当時ヨーロッパのほぼ全ての国・世論はイタリアに対して島の占領という軍事的行動の継続を許さず、イタリアは国際世論に妥協し国際的な調停を受け入れることになった。(当然、経緯に鑑み結果はイタリアにとって有利なものではあった)
2つ目に挙げられるのは、1924年に発生したマッテオッティ事件に伴う国内外からのムッソリーニ政権への批判である。これは社会党で当時ムッソリーニ批判の急先鋒であったジャコモ・マッテオッティがファシスト党内の過激派によって誘拐・殺害されるという事件で、この事件は国内的・国際的にムッソリーニ=ファシズム政権への心象を大きく悪化させることになってしまう。国内外からの「暴力的政府」という批判をかわし、国内に独裁体制を構築する時間を稼ぐ為にも、当時のムッソリーニにとって対外的に軍事行動を起こすことは避けられるべき行動であった。
◎イタリアの他国への外交的働きかけ
イタリアが外交的働きかけを行っていった国々について個別に見ていく前に、ファシスト・イタリアが誕生した時点での欧州情勢、とりわけ東南欧の国家間関係について概観しておきたい。
ファシスト政権が誕生した時、東南欧はフランスの裏庭であった。というのも、第一次世界大戦の終結後、フランスは東欧をソ連に対する「防疫線」とするべく民族自決の原則に則り次々に小国を独立させていったが、これらはいずれも経済的にも政治的にも弱体であり、あらゆる面でフランス(の経済力)に依存しなければならなかったのである。
これらの背景の下、対ソ・対独・対修正主義を目的としてこれらの新興国とフランスは次々に同盟・協商関係を結んで行き、1924年頃にはフランス・ポーランド・チェコスロヴァキア・ルーマニア間には経済・軍事的な同盟関係が構築された。また、ユーゴスラヴィアは21年までにチェコスロヴァキア・ルーマニアとの間に、ヴェルサイユ体制への不満を露わにしていたハンガリーへの対抗を主目的とした、「小協商」と呼ばれる同盟関係を構築しており、フランスとの直接的な同盟関係はまだないもののフランスとの協調姿勢を取っていた。また他にも、ギリシャに対してはイギリスが関係を深めており、東南欧においてイタリアに残された進出先はハンガリーやアルバニア、ブルガリアなどの「ヴェルサイユ体制に取り残された国々」しか残っていなかったのである。
このような状況の下で、ファシスト・イタリアは東南欧においては「フランスの裏庭の外」に向かって、すなわち「ヴェルサイユ体制に対する修正主義勢力」あるいは「孤立した国」へ対して積極的に働きかけていくことになっていく。そして、その対象となったのはハンガリー、アルバニア、そしてフィウメ(現リエーカ)であった。
フィウメは、ムッソリーニ政権誕生前にダンヌンツィオによる占領事件が起こって以来、自由市として国際的管理の下にあった。ムッソリーニは政権獲得後、ユーゴスラビアと交渉を行い1924年のローマ条約で正式にフィウメをイタリアに併合する。余談であるがこれはムッソリーニ政権にとって「最初の外交的成果」であり、当時のイタリア・ナショナリズムにおけるライバルであったダンヌンツィオが実現できなかった事をムッソリーニが実現したという側面からも政権は積極的にこの成果をアピールした。
次にハンガリーは、ヴェルサイユ体制に不満を持つという点でイタリアと共通の利害を持つ国であった。その為イタリア・ハンガリー関係は緊密さを増していき、1927年にはハンガリーとイタリアは友好条約を締結し、経済的・外交的連携を深めていくことを確認している。このハンガリーとの関係は、エチオピア戦争後のイタリアの退潮とともにハンガリーがドイツに接近していくまで密接であり続けていくことになる。
ハンガリーとイタリアが協力関係を深めたのに対し、アルバニアに対してはイタリアは介入・支配の方向性を強めていく。アルバニアは1920年イタリアの委任統治領から独立して以来ユーゴスラビアなどと協力し経済的・政治的独立を志向していた。しかし、国境問題からユーゴスラビアとの関係が悪化するとイタリアからの経済支援・協力への依存を深めていくことになる。こうしてイタリアに依存するようになったアルバニアに対しイタリアは1926年にティラナ条約、翌27年には防衛同盟条約を締結していき、アルバニアを事実上の保護国とし、自らの勢力圏へと組み入れていった。
このようにして、1920年代のイタリア外交はイギリスとは協調姿勢を保ちつつ、フランスの勢力圏であった東南欧に対して浸透を図っていく。そういう意味において、ムッソリーニ政権誕生後しばらくの外交はそれ以前の外交政策の継続であったと言えるのである。
・1920年代中~後期にかけての英仏独伊関係のイメージ(先と変化なし)
・・・と、いう所で今回はここまでとします。
本当は一気に最後まで書き上げてしまいたかったのですが、自分の遅筆さを鑑みた時多分今年が終わっても書き上がっていないという未来を垣間見た為、ひとまず前編として公開することにします。
後半は今回取り上げた1920年代の国際情勢を支えた諸要因が崩れ、国際関係が再編されていく1930年代を扱います。イタリアがどのようにして変動する国際情勢に対応し、そして最終的に選択肢なき戦争へと飛び込んでいくことになってしまうのか。いつになるか分かりませんが何とか書き上げていきたいと思います。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
・・・一つ記事書くって難しい。
<<参考文献>>
石田憲『地中海新ローマ帝国への道』及び博士論文
シモーナ・コラリーツィ『イタリア20世紀史』
Denis Mack Smith『Mussolini's Roman Empire』
H. James Burgwyn『Italian Foreign Policy in the Interwar Period 1918-1940』
MacGregor Knox『Common Destiny』